“死にたい”の正体は、“殺すぞ”だったΣ(゚Д゚)
昨日やっと、長年の希死念慮にさよならを告げようと、“私は死なない宣言”を、Twitterでさせて頂きました。←別にそんな物騒な感じじゃないけど(=゚ω゚)ノ
“死なない”って決めること。
私にとって、最大のタブーでした。
だって、本当に、本気で、洒落抜きで、自信無かったから(;’∀’)
っていうか、何か失敗した時、誰かに損害を与えた時、お詫びと言うか、
「ここまでやったんだから、もう責めないでよ(# ゚Д゚)」
っていう逆切れ的な感じで、死ななきゃいけないなって考えていたみたいです。
希死念慮自体は、高校の不登校の頃からありましたが、当時はただ単純に、“家庭内で精神力を使い果たして疲れて、やる気がなくなって、限界を超えてるから死にたい”だったと思います。
何故それが、“殺すぞ”に変わったか?
あ、もちろん、“自分で自分を”です。
他人様を、じゃないです(;’∀’)
何度も書いてるけど、本当に体調が悪くて、パニック症候群とか鬱状態で頭がおかしくなりそうなのを、必死でまともであろうと努力してた時、援助をくれていた父の機嫌を損ねたことで、無情にも援助を打ち切られてしまったことがありました。
こんなことが人生で2回あったので、もう、その後は父に期待しなくなりました。
妹も、同じような辛さを味わったので、
「ああ、そういう人なんだなあ」
と、諦めています
与えられた役目を果たせなかったら、嫌な思いをさせてしまったら、ペナルティとして、命を差し出さないといけないんだって、その時、強烈にインプットされてしまったようですorz
こりゃ…キツイよね。
仕事上でも、そうじゃなくても、人間関係が、常に円満に行くことなんて、有り得ないのに。
だからいつでも、死んでお詫び出来るように、準備してたんだね。
“私”なんてあっちゃいけない。
“自分”なんて主張しちゃいけない。
“お金をくれる人を第一に考えることが役割”なのだから。
ああ、何か、自分が可哀想になってきた(笑)
確かに、体調不良になっても、親に頼れずに、必死で行政とか福祉に頼らざるを得ない人もたくさんいるし、もしかしたら、ラッキーな部分もあったかもしれません。
だけど、私は、父の愛を、たくさん貰いたかった。
それが、お金という、不確かなものであったにせよ、私を大切なら、治療が終わるまで、元気になるまで、優しく見守ってくれるはずだ、と信じたかったんです。
結局期待も夢も失って、やけくそのまま、必死で仕事して、ちょっとずつ、病状も回復して。
だけど、頭と心の中に残った大きな傷は、ずっとそのまま放置されてたから、定期的にどうしても、酷く痛んで、身動きが取れなくなくことが多かった。
違うんだよ。
私は父に愛されなかったから、不完全で、価値の無い人間って訳じゃない。
母は、自分を大事にしなくて、何度も大金をドブに捨ててしまうような馬鹿だけど(笑)、私のことは愛してる。
妹も、祖母も、きっと同じ。
そして、血の繋がりの無い、友達も、私を愛してくれている。
はっきり自覚は無いけど、愛情を与えたいと思ってくれた男性だって、居たと思う。
私の命、誰かの機嫌の為に、使う必要は無い。
自分が幸せになる為、楽しく生きる為に、最大限に活かすことが、一番良い使い方。
もう、自分を殺さなきゃ、なんて、思わなくていい。
もう、自分を罰さなくていい。
誰かに死ねって言われたら、最大の力で抵抗していい。
ずっとずっと、本当に怖かった。
誰も助けてくれないって、頑なに考えてた。
でも、もういいかな、って思います。
自分が創り出した敵と戦う人生に、心底疲れました( *´艸`)
誰の為に生きていたんだろう。
今、初めて、そう感じています。
やっと…なのかな?
自信がある訳じゃないけど、怖さは、随分少なくなりました♡
また“死にたい”って思ったっていいや。
きっと、それは、もう叶わない気がします。
愛してるからって、何でもしてあげられる訳じゃない。
その事実に、ようやく気付くことが出来ました(*’▽’)